社長プロフィール
◆最終更新日:2012/04/12
※更新履歴:文末尾参照
名 前:橋邉正之♂ (はしべ まさシ)
:hashibe masashi)
現住所:宮崎県 宮崎市 (Miyazaki-City YAHOO Map)
生年月日年:1964年(S39生) 02月26日(辰年)
星 座:うお座
血液型:Rh+O型 (ラテン系)
好きな国:グァテマラ(中南米)
趣 味:読書、 ペット(犬、ウーパールーパー)、
カメラ、焼酎分析、アウトドア、 toc_ccpm、
まちづくり、水泳(水球)
職 業:役員・管理職(社長)
活動歴:
1)宮崎県海外協力協会(MOCA宮崎)
2)宮崎市内でPTA活動中
3)その他:多数の役職歴任
分 類:
1)考える技術(人をつなぐ哲学)系
2)禁煙者(脱煙草宣言日:06.12.01)
3)メタボリック判定(2009年)は「非該当」だった。
●モットー:
「明るく朗らかにアミーゴ(ラテン)の如し!」
●座右の銘:
1)「とりあえずはこの大きな動きの中で流れて、
それ以上のスピードで流れていく ことで
独自性を保っていくこと。」
(川俣正:『アートレス―マイノリティとしての
現代美術』:p45)
2)「私とは私と私の環境のことである。
そして もし この環境を救わないなら、
私も救えない。 」 (オルテガ・イ・ガセット)
●「自己紹介」
◆ハンドルネーム:
「アミーゴはしべ」若しくは”ハッシー”
◆体 重:95kg(2012/04/12現在:対前年度
同月比・±0)※目標体重:体重を88kg
◆身 長:182cm (対前年度同月比・-1cm)
◆家族構成:5名と1匹他
妻(戌年)、長男(大三・理工学部:東京圏)、
長女(高一)、次女(中二)、
(犬:ミニュチュアシュナウザー♀8歳、
セキセイインコ、 和金魚、スッポン )
◆私の足跡
■誕生:1964年 S39年生(東京オリンピック開催年)
生まれも育ちも宮崎市内【権現町・江平東】。4人兄弟
の長男として生まれる。(私と長女の妹とは年子、次男
及び三男とは7~9学年離れている)子どものころから
筋(体格)が良く、アニメ・ドラえもんの”ジャイアン
的存在”のガキ大将だった。でも「ジャイアニズム」で
はない。
■3歳:1966年4月~1967年3月:S41年~S42
初めての幼稚園:
学校法人修徳学園 宮崎至慶(しけい)幼稚園入園。
年少組(3歳児クラス)卒園。
■4歳~15歳(小・中学校時代)
1967年4月~1979年3月:S42年~S54(12年間)
宮崎大学教育学部 附属幼・小・中学校の一貫校で楽
しい学舎を過ごす。
小・中の楽しみは「給食」若しくは食育学。給食時間に
「牛乳嫌い」の級友から牛乳をかき集め、毎日5本~
10本飲むこと(笑)。その効果もあって身長はグン
グンと伸び、国際競争の舞台でも十分に闘えるよ丈を
得ることができた。
小・中を通しスポーツは「水泳(クラブ・部)」に
所属。 中学時代は「ピンク・レディー」のファン
クラブに入会し熱狂した。
その頃の趣味は映画鑑賞。懐かしの昭和50年代。
勉学は嫌いではなかったが、偏差値偏重教育に反発する
教師啼かせの嫌な学生だった。(笑)
■16歳~18歳(高校時代)
79年4月~82年3月:S54~S57
S54年(宮崎国体が開催された年)宮崎県立宮崎工業
高校に入学。 ※ 「水球部」に入部。
文:三年間で一回の奇跡。
英語テストで学年1番を獲得。
武:高校生活は、朝(6時)から晩(10時頃)まで水球
地獄、猛特訓の日々。
練習の成果と恩師(元ミューヘンオリンピック代表)に
恵まれ、高校3年間を通し、毎年インターハイと国体に
出場し、入賞する事ができた。全国制覇に燃えたのだが
、結果は「銀」「銅」に果てる。
高校三年時は現在タレントの吉川晃司さんの所属する
広島県修道高校と対戦し悔しくも敗退。
その頃、わたし達は丸坊主の中、吉川選手達は(憧
れ)長髪、彼らは試合の直前まで(流行の)ウォーク
マンを耳にあてていたことが印象的(カルチャー
ショック)だった。
■19歳~20歳(大学時代)
82年4月~83年:S57~S58
「大学」は、花の東京へ上京。「専修大学」(経済
学部)に入学。生田校舎(神奈川県)で学ぶ。
このころの専大水球部は二部リーグに位置しており
、はっきり言って強くなかった。自前のプールもなく
日々転々と練習会場を変えていた。
想い出に残っているのは、東京大学の赤門をくぐり
東大のプールで東大生と一緒に練習をしたこと。
ある時この大学生活に疑問を感じ始め、大学二年の
時に、先輩や監督・両親の説得を振り切り自主退学
する。(二十歳の頃)
■83年~84年3月:S58~S59
中退後は郷里に戻りアルバイトとサーフィンをしながら
再度、勤労と進学に励むことを決意する。S58年に
「宮崎県産業開発青年隊」を受験。
■21歳~23歳(青年隊時代)
84年4月~86年3月:S59~S61
84年(S61)四月に「宮崎県産業開発青年隊」
(以下:SKSと称す)に入隊。
二十歳の時に大学を中退し、する事もなく、行くところ
もなく、そんなとき、わたしの心に再び「渇」を入れて
くれたのが、このSKS。また初めて建設工学関係の
勉強をしたのもこのSKSであった。
■SKSの生活:毎朝五時半に起床し、ランニングから
始まる早朝訓練はとてもつらかった。地獄の特訓と思え
る軍隊式の厳しい基本教育訓練に驚いた。
初めて履く安全靴(その当時は、"はんちょうか"と呼ん
でいた)にいつも足の指に豆を作っていた。
昼間は宮崎県土木部の直営現場(県単独事業)で
土木作業(普通作業員としブロック積み等)員。
夕食後、十九時より二二時までの講義はとても眠く、
毎晩、自分の太股を抓り続けた毎日だった。
おかげで、この二年間の厳しい生活がその後のわたしの
人生に大きな影響をもたらした事は間違いない。
■そんな「SKS」の、「信条」が好きです。
「われらの信条」:「友情・希望・協力」
■そして、「青年隊綱領」を毎日唱和していた。
「われらは、産業開発に挺して、
人類平和のためにつくさんことを誓う。」
「われらは、友愛と団結をもって
理想の社会を建設せんことを誓う。」
「われらは、不屈の信念をもって
創設の大業を達成さんことを誓う。」
■23歳 86年4月:S61年 (新入社員~)
同年4月に(社)産業開発青年技術協会に入社。
(本部、東京) 新入社員研修を静岡で受ける。
その後名古屋で辞令交付を受け、最初の勤務地
群馬県「沼田市」に向かう。
ここではその当時、日本一のロックフィルダムと言
われた、"奈良俣ダム建設所"(旧:水資源開発公団)
第一ダム建設課に配属され、勤務する。
夏場はダム本体のある水上町(水上温泉郷)で生活を
し、現場が稼働しない冬場は「越冬」ということで、
沼田市で生活をする。
山の生活は特に娯楽もなく(盛り場もなく※大吉という
ホルモン屋はあった)、毎晩、寮生や同僚・先輩と酒を
酌み交わす毎日だった。
この「初勤務地」では忘れられない想い出が山ほど
出来た。その一つが、スキーの初体験と渓流釣り。
その後数年後にダムは完成した。
ダムの完成記念碑には私の名前も刻まれおり、
いつの日か又行ってみたいと思う。
■25歳 88年4月:S63(移動転勤)
奈良俣ダム配属から2年後、
69'式のワーゲン(カブトムシ型、色はペバーミン
ト)に荷物を詰めるだけ詰め、上部キャリアにはサ
ーフボード、後部にはスキー板をくくりつけ、水上
や沼田の友に別れを告げる。
向かうは名古屋へ!
■山の生活からいきなり都会の生活が始まる。
ここでは、旧:建設省の庄内川工事事務所、調査設
計課で勤務。 寮は春日井にあり、名古屋の「みゃ
~みゃ~」文化を楽しむ。
■25歳 88年10月~12月:S63
"青年海外協力隊"(JICAボランティア)の「派遣」
決定!選考試験に合格し 長野県駒ヶ根市にある、
JICA駒ヶ根根訓練所に入所。
ここでは朝から晩まで缶詰状態で、語学(スペイン語)
を学んだ。こんなに長時間、机にむかったのは生まれ
て初めてだった。その他、任国事情(グアテマラの事
や国際協力学を学ぶ。
二ヶ月半(80日)の訓練が終わり、その後、わた
し達は、世界50カ国(現在は80カ国)へと別れる。
■26歳 89年1月:S64(現職参加時代)
(1月4日じてんでは、まだ昭和だった。後に昭和天皇
がご逝去され、「平成」と称号が変わる)
会社から休職の辞令交付を受け、1月4日に派遣国
である「グアテマラ」出発する!
■89年1月~2月:メキシコでの語学研修
グアテマラに入る前に、メキシコ、クエルナバカ市で約
1.5ヶ月間の特別語学研修を受ける。この時期、
秘密訓練としアカプルコへ行ったは忘れられない。
クエルナバカは駒ヶ根訓練所と違いリラックスした
雰囲気で楽しい生活が送れた。(ホームステイ)
とても、とても、楽しい語学訓練だった。
■26歳~27歳
89年3月~91年1月:H元年3月~H3年1月
89年3月グアテマラ・シティーへ到着。
わたしはグアテマラ共和国と日本政府が初めてODA
の技術派遣協力締結した、その第1号隊員だった。
派遣人数1名、たった一人で、マヤ文明の地、
グアテマラ国へ乗り込む。
こんな私でも、この時ばかりは大変に緊張し、不安
に駆られ、寂しい思いをしたことを今でも忘れない。
グアテマラでは、都市農村開発省(現在はこの省は
存在しない)に配属され、辞令をこの省の大臣から
(日本で言うならば、農林水産大臣)直接 受けた。
でもこの時、語学の未熟なわたしは、この大臣が何
を喋っているのかが、さっぱり理解出来なかった。
きっと海馬は喜んでいたのだが、語彙と脳みそと
身体が連動せず、萎縮していた。
■勤務地は首都から200km離れたバハ・ベラパス州
サラマ市。(バスで片道5時間)
この時から、わたしの土木技術者とする「グアテマ
ラの探検」、「冒険の生活」が始まる。
二年間でグアテマラ国内はくまなく歩いた。
それだけではもの足りず、メキシコの主たる地にも
足を踏み入れる。
その後ベリーズ、
エルサルバドル、
ホンジュラス、
ニカラグア、
コスタリカ、
パナマ、を「冒険」し、
"ダーウィンの進化論"の地、エクアドルの
"ガラパゴス諸島"を訪ねる。
ガラパゴスを最後に、日本へ帰国する。
■91年1月:H3年1月
成田へ到着! (帰国)
真冬なのに半袖アロハシャツで堂々とタラップを降
りる私を思い出した。2年間の中南米生活ですっか
り頭は"アミーゴ!"の世界だ。
成田へ迎えに来てくれた、上司が「唖然」とする。
(笑)
※これから、今日までずっ~と
"逆カルチャーショック"、、、現在に至る。
■27歳 91年3月:H3年3月3日
グアテマラ派遣中に遠距離恋愛していた彼女(現在
の妻)と晴れて結婚。
■28歳~30歳
91年4月~93年9月:H3年~H5年
(長野 木曽福島・塩尻市の生活)
痛い現実(復職)の始まり!
東京で辞令交付を受け、長野県木曽福島へ向かう。
ここでは中部地方の水事情を解消するべく
"味噌川ダム建設"が最盛期を迎えていた。
ここではなぜか?「調査設計課」という非常に頭を
使う、("脳みそが狂いかけた")頭の痛い「課」
に配属される。
進む仕事は、リハビリ中のわたしのことなど考えて
くれる訳もなく、連日連夜の超過勤務生活の始まり
だった。
味噌川は4月というのに、まだ雪雪雪の豪雪地帯だ
った。
ラテンアメリカの世界から雪国生活へと、生活や仕事
に慣れるまで、相当の時間を要したわたし、、、。
また道路事情が反対のグアテマラから母国の右ハン
ドルへ感覚を取り戻したのも、この長野県だった。
この復職(現場)で、日本の日本人とする本当の
厳しい現実をつくづく実感するのであった。
味噌川ダムでも色々なことを体験した。
もう時効なので公開するが、設計がダム本体の進捗
に追いつかず、(※会計検査対策)
人間を離れした、二晩まったく一睡もせず
「58時間」業務(作業)を体験した。
その後、後遺症が発生し、初の帯状疱疹(たいじょ
うほうしん)に倒れ、1週間ほど寝込んだ。
これも若き思い出の一つだ。
味噌川では、2年6ヶ月の"海馬リハビリ"を続け
るが、回復の余地なく リハビリ困難と診断され
(笑)、その組織を退職。
■30歳 93年10月:H5年
宮崎に戻り、現在勤務する「第一建設」に入社!
●以来 ず~っと私の脳みそは"リハビリ中"(笑)
◆2005.02.28 初「skype」を体験、感動!
skype名は「masashihashibe」
■44歳 2008年3月12日
第一建設(株)代表取締役社長に就任。
■2010//07/03
宮崎県海外協力協会(MOCA宮崎)
【青年海外協力隊宮崎県OV会】会長を退任
■48歳 2012/03/31
宮崎市立宮崎東中学校PTA会長を退任
■2012/04/01
宮崎市立宮崎東中学校教育振興会会長に就任
◆更新履歴
〇2012/04/12:あしあと追加
○2012/02/01:モットー加筆修正
○2011/04/26:家族構成追加
○2011/03/09:facebook mixi ロゴ追加
○2010/10/22:twitterロゴ追加
○10.07.15:宮崎県口蹄疫で埋却を体験
○10.07.03:宮崎県海外協力協会会長を退任
○10.04.19:家族構成等を修正
○08.05.14:分類にメタボリック判定「非該当」を追加
○08.02.06:プロフィールの修正
○08.11.17:モットーと座右の銘を追加、
○08.10.07:プロフィールの修正
○08.09.25:趣味の追加、ハンドルネームの追加、活動の追加
○08.07.16:体重の変更(減)
○08.06.18:本文の一部変更
○08.03.12:役職の変更(代表取締役社長に就任)
○08.02.28:体重の変更
○07.05.11:活動・分類、家族構成の改訂
○07.03.17:体重増加、
○07.01.25:体重変更、脱煙草宣言日追加、
○06.08.29:プロフィール若干の修正・追加
◆現在、わたしが所属するプロダクションが「桃組」
そのボスが桃知利男師匠、ハンドルネーム「pinkhip」
http://www.momoti.com/index.php
桃知師匠との出会いによって、
わたしは2003年9月15日より、この日記
(反省の行為)を書き始める。










