アミーゴはしべプロフィール

アミーゴはしべこと、橋邉正之のプロフィール

名 前:橋邉正之♂ (はしべ まさし:hashibe masashi

アミーゴはしべ社長

現住所:宮崎県 宮崎市

生年月日年:1964年(S39生) 02月26日(辰年) キウイー世代

星 座:うお座

血液型:Rh+O型ラテン系

好きな国:グァテマラ(中南米)


趣 味:
ウェイトトレーニング(筋トレ) 、読書、 ペット()、
焼酎分析アウトドアtoc_ccpmまちづくり

職 業:役員・総合管理職(社長)

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地球市民とする活動歴

1)国際関係
JOCA 公益社団法人青年海外協力協会 九州ブロック幹事
特定非営利活動法人 九州海外協力協会 理事
(Japan Overseas Cooperative Assosiation Of Kyushu)
宮崎県海外協力協会(MOCA宮崎「モカみやざき」)
(青年海外協力隊、宮崎県OV会、元会長:2010//07/03退任)
2)PTA活動から地域活動へ!(H26年5月:宮崎市PTA協議会副会長退任)
3)宮崎市倫理法人会 (会長:H27年9月~H30年8月) 
4)その他:多数役職歴任

分 類:
1)考える技術(人と人を愛でつなぐ哲学系)
2)禁煙者(脱煙草宣言日:06.12.01
3)メタボリック判定(2009年)は「非該当」。2014年5月メタボ脱出!

●モットー:
明るく朗らかにアミーゴの如し!
なにがあってもよかったなぁー!
笑顔は社長の仕事
経営とは環境適応業

●座右の銘:
1)「とりあえずはこの大きな動きの中で流れて、
   それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくこと
。」
   (川俣正:『アートレス―マイノリティとしての現代美術』:p45)

2)「私とは私と私の環境のことである。
  そして もし この環境を救わないなら、私も救えない
。 」
  (オルテガ・イ・ガセット

3)「強いものが生き残るとは限らない、
  賢いものが生きるとも限らない。
  変化するものだけが、生き残り成長するのだ。」(種の起原)

●「自己紹介」
◆ハンドルネーム:「アミーゴはしべ」若しくは「ハッシー
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【2018年8月:ベストボディジャパン 宮崎大会 ゴールドクラス5位】

IMG_1605.JPG2017年9月アミーゴはしべ
【2020年8月】    【2017年9月】    【2015年10月頃】

◆身 長:180cm
◆体 重:78.0kg(内:筋肉38kg、体脂肪9kg)BMI:23.9kg/m2、
     体脂肪率:12.5%(2020.10.02現在
※目標スタイル:筋肉アスリート型 ※目標体重:減量時・仕上がり体重:83キロ

◆家族構成:5名と1匹他の内訳→妻(戌年)、
      長男(申年・建築理系・東京在住)、
      長女(アパレル系・東京)、次女(医療系・横浜)、
      (犬:ミニュチュアシュナウザー♀2003年生まれ)

私の足跡
1964年:S39年生の早生まれ東京オリンピック開催年)
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【出生後24時間のわたし】

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【S39年5月初節句:父母に抱かれて】

生まれも育ちも「宮崎市内」。4人兄弟の長男に生まれる。
子どものころから筋(体格)が良く、アニメ・ドラえもん
ジャイアン的存在」の「ガキ大将」だった。
※しかし、「ジャイアニズム主義者」ではない。

■1967年4月~1968年3月:S42~S43
宮崎至慶幼稚園(年少組三歳児コース)卒園
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1968年4月~1979年3月:S43年~S54(11年間)
幼・小・中学校宮崎大学教育学部の教育一貫校で楽しい
学舎を過ごす。
この頃の楽しみは「給食」若しくは食育学。給食時間に
「牛乳嫌い」の級友から牛乳を回収し、
毎日5本~10本飲むこと。
そのお陰で身長はグングン伸びた(笑)。
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小・中を通し得意なスポーツは水泳
水泳部」に所属。 また中学時代は「ピンク・レディー」の
ファンクラブに入会し熱狂した。
趣味は映画鑑賞。懐かしの昭和50年代)基本的に勉強は
嫌いでなかったが、この時代の偏差値偏重教育に反発する
教師啼(な)かせの不良中学生だった。(笑)

79年4月~82年3月:S54~S57 「高校時代」
S54年(宮崎国体が開催された年)宮崎県立宮崎工業高校に入学。
水球部」に入部。
 文:三年間で一回の奇跡。英語のテストで学年1番を獲得。
 武:高校生活は、朝から晩まで水球地獄、猛特訓の日々と恩師
 (元ミューヘンオリンピック日本水球代表)に恵まれ、
  高校3年間を通し、毎年インターハイ国体にレギュラー
 (メンバー)試合へ出場し入賞する事ができた。
  全国制覇に燃えたのだが、結果は「銀」「銅」 に果てる。

 高校三年の時は吉川晃司(現在タレント)の所属する
 広島県修道高校と対戦し悔しくも敗退。その頃、わたし達は
 丸ボウズの中、吉川選手達は(憧れ)長髪。彼らは試合の直前
 まで(流行の)ウォークマンを耳にあてていたことが
 とても印象的(カルチャーショック)だった。

■高校時代の水球競技の戦績
S54(高1):国体3位、インターハイ2位
S55(高2):国体3位、インターハイ2位
S56(高3):九州大会初優勝

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【その当時の最強メンバー:写真後列より左からアミーゴ、
 ア二マル竹谷(先輩)、新見(先輩)、
 前列左より宮本(現宮工水球部監督)、鮫島(先輩)、
 谷口(2010.2.13 宮工水球部OB会)】

82年4月~84年3年:S57~S59 「大学時代」
大学」は、花の東京へ上京。「専修大学」(経済学部)に入学。
 生田校舎(神奈川県)で学ぶ。
 この頃の専大水球部は二部リーグに位置しており、自前のプール
 もなく日々転々と練習会場を変えていた。そんな中、想い出に残
 っているのは、東京大学の赤門をくぐり東大のプールで東大生と
 一緒に練習をしたこと。 ある時、平凡な大学生活に疑問を感じ、
 大学二年の時に先輩や監督・両親の説得を振り切り自主退学。
 (二十歳の頃)

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郷里に戻りサーフィンとアルバイトをしながら再度、勉学に
励むことを決意、

1984年に「宮崎県産業開発青年隊」を受験。

84年4月~86年3月:S59~61年
84年(S59)四月に「宮崎県産業開発青年隊」(以下:SKS)に入隊。
大学を中退し、わたしの精神に再び「渇(希望)」を入れてくれたのが、
このSKS
また初めて土木・建設工学系の勉強をしたのもこのSKS

毎朝五時半に起床し、ランニングから始まる早朝訓練はとても
つらかった。地獄の特訓かと思える、厳しい基本教育訓練に驚く。
初めても履き慣れない安全靴(その当時は、"はんちょうか"と呼んでいた)
にいつも指豆を作っていた。昼間は実践実習として宮崎県土木部
直営現場(県単独事業)にて土木作業(普通作業員としブロック積み等)
に従事。夕食後、十九時より二二時までの講義はとてもとても眠く、
毎晩、自分の太股を抓り、渇を入れていた。

この厳しい二年間の訓練生活が、
その後の(今の)わたしの人生の大きな糧となっている!

■そんな「SKS」の、この「信条」が好きだ!「われらの信条」:「友情・希望・協力」
■この「青年隊綱領」を毎日、皆で唱和していた。 以下、青年隊綱領
「われらは、産業開発に挺して、 人類平和のためにつくさんことを誓う。」
「われらは、友愛と団結をもって 理想の社会を建設せんことを誓う。」
「われらは、不屈の信念をもって 創設の大業を達成さんことを誓う。」

86年4月(S61年) 「就職」
同年4月に(社)産業開発青年技術協会入社(本部、東京)。
新入社員研修を静岡の建設省 建設大学中央訓練所 (現在の富士教育訓練センター)で受け、
その後、名古屋で辞令交付を受け、初任地の群馬県真田の里「沼田市」に向かう。

ここではその当時、日本一のロックフィルダムと言われた、
"奈良俣ダム建設所"(旧:水資源開発公団)第一ダム建設課に配属され、勤務する。

夏場はダム本体のある水上(みなかみ)町(水上温泉郷)で生活をし、
現場が稼働しない冬場は「越冬」ということで、沼田市で生活。山(みなかみの宿舎)の
生活は特に娯楽もなく(盛り場もなく※大吉というホルモン屋が懐かしい)、
毎晩、寮生や同僚・先輩と酒を酌み交わす日々だった。

この「初勤務地」では忘れられない想い出が山ほど出来た。
その一つが、スキーの初体験渓流釣り。 その数年後にダムは完成した。
ダムの完成記念碑には私の名前も刻まれおり、いつの日か又行ってみたいと思う。

■88年4月:S63 「初転勤」
群馬の生活に後ろ髪を引かれながら、
69'式のワーゲン群馬で購入したカブトムシ、色はペバーミント)に荷物を詰めるだけ
詰め、上部キャリアにはサーフボード、後部にはスキー板を縛りつけ、上州の友に別れを告
名古屋へ向かう!

■「名古屋での生活」
山の生活から、いきなり都会の生活が始まる。ここでは、
旧:建設省の庄内川工事事務所、調査設計課で勤務。
寮は春日井にあり、名古屋の「みゃ~みゃ~文化」に触れた。

■88年10月(S63)「JICA駒ヶ根訓練所に入所」
"青年海外協力隊JICAボランティア"の「派遣」が決定! 派遣前訓練開始 。
1次・2次選考試験にお陰様で合格し長野県駒ヶ根市にある、JICA駒ヶ根訓練所に入所。
ここでは朝から晩まで缶詰状態で、語学(スペイン語)を学んだ。

こんなに机に向かったのは初めてだった。

その他、任国事情(中南米及びグアテマラ国の事)や国際協力学を学ぶ。
二ヶ月半(80日)の訓練が終わり、
その後、わたし達は、世界50カ国(現在は80カ国)へと別れる。

■89年1月:S64(1月4日じてんでは、まだ昭和だった。)さらば日本、
                       いざメキシコ&グアテマラへ!

後に昭和天皇が逝去され「平成」と称号が変わった年に、
会社から休職の辞令(現職参加)を受け、
1月4日に派遣国である「グアテマラ」出発する!

※グアテマラに入国前に、メキシコ、クエルナバカ市にて約1.5ヶ月間の特別語学研修
を受ける。この時、秘密訓練としアカプルコへ行った事は良い思い出となっている。

【1989年2月 メキシコ アカプルコにて】
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クエルナバカは(缶詰の)駒ヶ根訓練所と違いリラックスした
雰囲気で楽しいメキシカン生活が送れた。
ホームステイはとても、とても、楽しい語学生活研修だった。

■89年(平成元年)3月~91年(平成3年)1月:「青年海外協力隊としてグアテマラで活動
89年(平成元年)3月、グアテマラ・シティーへ到着

わたしはグアテマラ共和国と日本政府が初めてODAの技術派遣協力締結した、
その第1号隊員だった。(1989年3月:青年海外協力隊 グアテマラ国初代隊員
として着任)派遣人数1名。たったの一人でマヤ文明の地、グアテマラ国へ乗り込む。

こんな私でも、この時ばかりはかなり緊張した(していたと思う)。
見知らぬ地での独りぼっちの生活・活動に不安に駆られ、寂しい思いをしたことを
今でも忘れない。(日本語を喋れないさびしさ、、、)


【1989年3月~4月頃:配属先のドクトーラ・アンパウロさんと:都市農村開発省にて↓】

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【1991年1月活動終了時:グアテマラ都市農村開発省より感謝状を授与。
写真左:担当次官、写真右:担当大臣↓】

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グアテマラでは、都市農村開発省(現在はこの省は存在しない)に配属され、
辞令をこの省の大臣から(日本で言うならば、農林水産大臣)直接 受けた。

でもこの時、語学の未熟なわたしは、この大臣が何を喋って(言って)いるのかが、
さっぱり理解出来なかった。きっと海馬は喜んでいたのだが、語彙と脳みそと身体
が連動せず、萎縮していたのだろう(汗)。

■勤務地は首都から200km離れたバハ・ベラパス州 サラマ市
(首都からバスで片道約5時間) この時から、わたしのシビルエンジニアとする
「グアテマラの探検」、「未知との遭遇」が始まる。

【活動状況:
吊り橋の建設現場にて現地のインディオ系職人さんと打ち合わせ↓】
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【豪雨後の被災現場にて:災害状況調査(被害状況の聞き取り↓ 】
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【吊り橋の竣工式↓写真中央サングラス:アミーゴ】

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【任地隊員の皆と、クブルコにて↓】
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【↑首都グアテマラシティーにてプロジェクト会議】

二年間でグアテマラ国内を、くまなく歩いた。
それだけではもの足りず、メキシコの主たる地にも
足を踏み入れる。
その後ベリーズ
エルサルバドル
ホンジュラス
ニカラグア
コスタリカ
パナマ、を「冒険」し、

"ダーウィンの進化論"の地、エクアドル
"ガラパゴス諸島"を訪ねる。
ガラパゴスを最後に、日本へ帰国

■91年1月(H3年)「帰国
成田へ到着!

真冬なのに半袖アロハシャツで堂々とタラップを降り立つ私を思い出した。
2年間の中南米生活ですっかり頭は"アミーゴ!"の世界だ。
成田へ迎えに来てくれた、上司が「唖然」とする。(笑)

※それから、今日までずっ~と"逆カルチャーショック"、、、で現在に至る。


■91年3月(H3年3月3日) 「結婚
グアテマラ派遣前に結納を交わした彼女(現在の妻)と(慌てて)晴れて結婚。

■91年4月:「復職・現場復帰
痛い現実(復職)の始まり。
東京で辞令交付を受け、長野県木曽福島へ向かう。
ここでは中部地方の水事情を解消するべく"味噌川ダム建設"が最盛期を迎えていた。

帰国後なぜか?「調査設計課」という非常に頭脳を使う、("脳みそが狂いかけた")
頭の痛い「課」に配属される。
ハードな業務は、リハビリ中のわたしのことなど考えてくれる訳もなく、
連日連夜の超過勤務生活の始まりだった。
味噌川は4月というのに、まだ雪・雪・雪の豪雪地帯。中南米から雪国へと、
生活・仕事に慣れるまで、相当の時間を要した。

また道路事情が反対のグアテマラから、祖国の右ハンドルへ感覚を取り戻したのも、
この長野県だった。 この復職で、日本の本当に厳しい現実を、つくづくと目の当たり
にするのであった。

味噌川でも色々なことを体験・経験した。
もう時効なので公開するが、設計がダム本体の進捗に追いつかず、
(会計検査対策)人間離れした、二晩まったく一睡もせず「58時間業務(作業)」を
体験した。
その後、後遺症が発生し、初の帯状疱疹(たいじょうほうしん)に倒れ、
1週間ほど寝込んだ。(笑) (これも若き日の思い出 )

味噌川では、2年6ヶ月の"海馬リハビリ"を続けるが、回復の余地なく
リハビリ困難と診断され(笑)、その組織を退職。

■1993年10月(H5年)「ふるさと・宮崎へ帰る
宮崎に戻り、現在勤務する「第一建設」に入社!

●以来 ず~っと私の脳みそは"リハビリ中"(笑)

■2008年(H20)3月12日
第一建設(株)代表取締役社長に就任
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【パンダに変身:2009年11月北京にて】

■2016年元旦より毎月月初めの禊を継続中
第2回世界禊大会in大御神社
【2017年7月2日:第2回世界禊大会in大御神社


◆05.02.28 初「skype」を体験、感動!
◆現在、わたしが所属するプロダクションが「桃組」、
そのボスが桃知利男師匠、
ハンドルネーム「pinkhip」
http://www.momoti.com/index.php
桃知師匠との出会いによって、
わたしは2003年9月15日より、うり坊のひとりごと等 Blog(反省の行為)を書き始める。


◆更新履歴

〇2020/11/04:2018年8月ベストボディージャパン宮崎大会結果追加
〇2018/06/11:プロフ写真変更、InBody(2018.6.3版)更新、
〇2017/10/01:プロフ写真追加、自己紹介写真追加、InBody更新、足跡に禊を追加
〇2015/12/16:活動歴に倫理法人会追加、自己紹介にInBodyを追加
○2014/06/23:目標体重変更80kg→75kg
○2014/02/11:目標体重変更85kg→80kg
○2013/11/18:目標体重変更88kg→85kg
○2012/07/19:89'~91'グアテマラ活動写真追加
○2012/07/09:プロフィールの再更新
○2011/04/26:家族構成追加
○2011/03/09:facebook mixi ロゴ追加
○2010/10/22:twitterロゴ追加
○10.07.15:宮崎県口蹄疫で埋却を体験
○10.07.03:宮崎県海外協力協会会長を退任
○10.04.19:家族構成等を修正
○08.05.14:分類にメタボリック判定「非該当」を追加
○08.02.06:プロフィールの修正
○08.11.17:モットーと座右の銘を追加、
○08.10.07:プロフィールの修正
○08.09.25:趣味の追加、ハンドルネームの追加、活動の追加
○08.07.16:体重の変更(減)
○08.06.18:本文の一部変更
08.03.12:役職の変更(代表取締役社長に就任)
○08.02.28:体重の変更
○07.05.11:活動・分類、家族構成の改訂
○07.03.17:体重増加、
○07.01.25:体重変更、脱煙草宣言日追加、
○06.08.29:プロフィール若干の修正・追加