宮崎県で家を建てるなら、〝てげぇカワイイママになれる家〟第一建設株式会社へ。

  1. アミーゴ橋邊
  2. 第一建設株式会社

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アミーゴはしべ社長 プロフィール

◆更新日:10年07月15日 更新履歴:文末尾参照
名 前:橋邉正之
    (はしべ まさし:hashibe masashi
      
現住所:宮崎県宮崎市 (Miyazaki-City YAHOO Map)
生年月日年:1964年(S39生) 02月26日(辰年)
星 座:うお座
血液型:Rh+O型ラテン系
好きな国:グァテマラ(中南米)
趣 味:読書, ペット(ウーパールーパー),カメラ, 焼酎,
         アウトドアtoc_ccpm, まちづくり、
職 業:役員・管理職(社長)

活動歴
1)宮崎県海外協力協会(MOCA宮崎)
(青年海外協力隊OV会の元会長)
  
http://ameblo.jp/moca-miyazaki/
2
)宮崎市内でPTA活動中
3)その他 多数の役職を歴任

分 類:
1)考える技術(人をつなぐ哲学)系
2)禁煙者(脱煙草宣言日:06.12.01)
3)メタボリック判定(2009年)「非該当」

●モットー:
 「明るく朗らかにアミーゴ!
●座右の銘:
1)「とりあえずはこの大きな動きの中で流れ
  て、それ以上のスピードで流れていくこ
   とで独自性を保っていくこと。」
        (川俣正:『アートレス―マイノリティと
                  しての現代美術』:p45)
2)「私とは私と私の環境のことである。
  そして もし この環境を救わないなら、私も救えない
。」
                     (オルテガ・イ・ガセット
●「自己紹介」
 ◆ハンドルネーム:「アミーゴはしべ」若しくは「ハッシー」
 ◆体  重:95kg(10.04.30現在)
  ※目標体重:体重を88kg
 ◆身  長:183cm
 ◆家族構成:5名と1匹、
   妻(戌年)、長男(大一)、長女(中二)、次女
   (小六)、(犬:ミニュチュアシュナウザー♀6歳)

私の足跡
1964年:S39年生東京オリンピック開催年)
生まれも育ちも「宮崎市内」。4人兄弟の長男に生まれる。
子どものころから体格は良く、アニメ・ドラえもんの「ジャイ
アン
的存在」の「ガキ大将」だった。
しかし、「ジャイアニズム主義者」ではない。

1967年4月~1979年3月:S42年~S54(12年間)
 幼稚園~中学校宮崎大学教育学部の一貫校で楽しい
学舎を過ごす。
この頃の楽しみは「給食」若しくは食育学
給食時間に「牛乳嫌い」の友達から牛乳をかき集め、
毎日5本~10本飲むこと(笑)。
小・中を通しスポーツは「水泳(部)」に所属。
 中学時代は「ピンク・レディー」のファンクラブに
入会し熱狂した。趣味は映画鑑賞懐かしの昭和50年代
 勉強は嫌いではなかったが、この頃の偏差値偏重教育に
反発する教師啼かせの嫌な学生だった。(笑)

79年4月~82年3月:S54~S57
 S54年(宮崎国体が開催された年)宮崎県立宮崎工業高校
に入学。学年で英語の成績1番を獲得。「水球部」に入部。
 3年間、朝から晩まで地獄のような猛特訓の日々、
練習の成果と恩師(元ミューヘンオリンピック代表
選手)に恵まれ、高校3年間を通し、毎年インター
ハイと国体に出場し、入賞する事ができた。
 全国制覇に燃えていたのだが、結果は「銀」「銅」
に果てる。
 高校三年の時は吉川晃司(現在タレント)の
所属する広島県修道高校と対戦し悔しくも敗退。
 その頃、わたし達は丸坊主の中、吉川選手達は(憧
れ)長髪、彼らは試合の直前まで(流行の)ウォ
ークマンを耳にあてていたことが印象的(カルチャ
ーショック)だった。

82年4月~83年:S57~S58
大学」は、高校時代の水球の実績を活かし、花の
東京へ上京。「専修大学」(経済学部、経営学科)に
入学。生田校舎(神奈川県)で学ぶ。
 このころの専大水球部は二部リーグに位置しており
、はっきりいって弱かった。自前のプールもなく
日々転々と練習会場を変えていた。
 想い出に残っているのは、東京大学の赤門をくぐり
東大のプールで東大生と一緒に練習をしたこと。
 ある時この大学生活に疑問を感じ始め、大学二年の
時に、先輩や監督・両親の説得を振り切り自主退学
する。(二十歳の頃)

83年〇月~84年3月:S58~S59
 郷里に戻りアルバイトをしながら再度、
勉学に励むことを決意、
宮崎県産業開発青年隊」を受験する。

84年4月:S59~86年3月:S61
 84年(S61)四月に「宮崎県産業開発青年隊」(以
下:SKS)に入隊。
 大学を二十歳で中退し、する事もなく、行くところ
もなく、そんなとき、わたしの精神に再び「渇」を
入れてくれたのが、このSKS。
また初めて土木工学関係の勉強をしたのもこのSKS
■毎朝五時半に起床し、ランニングから始まる早朝訓
練はとてもつらかった。地獄の特訓と間違えるかの
ような、厳しい基本教育訓練に驚く。
 初めて履く安全靴(その当時は、"はんちょうか"と
呼んでいた)に幾つもの豆を作る。
 昼間は宮崎県土木部の直営現場(県単独事業)で土
木作業(普通作業員としブロック積み等)員。
 夕食後、十九時より二二時までの座学(講義)はとても
眠く、毎晩、自分の太股を抓り続けた日々だった。
 でも、この厳しい二年間の生活がその後のわたしの
人生に大きな影響をもたらした事は間違いない。

■そんな「SKS」の、この「信条」が好きです。
「われらの信条」:「友情・希望・協力」
■そして、この「青年隊綱領」を毎日おらんでいた。
「われらは、産業開発に挺して、
    人類平和のためにつくさんことを誓う。」
「われらは、友愛と団結をもって
    理想の社会を建設せんことを誓う。」
「われらは、不屈の信念をもって
    創設の大業を達成さんことを誓う。」

86年4月:S61年
同年4月に(社)産業開発青年技術協会入社
 (本部、東京) 新入社員研修を静岡で受け、その
後、名古屋で辞令交付を受け、最初の勤務地、群馬
県「沼田市」に向かう。
 ここではその当時、日本一のロックフィルダムと言
われた、"奈良俣ダム建設所"(旧:水資源開発公
団)第一ダム建設課に配属され、勤務する。

夏場はダム本体のある水上町で生活をし、現場が稼
働しない冬場は「越冬」ということで、沼田市で生
活をする。

山の生活は特に娯楽もなく(盛り場もなく※大吉と
いうホルモン屋はあった)、毎晩、寮生や同僚・先
輩と酒を酌み交わす毎日だった。

この「初勤務地」では忘れられない想い出が山ほど
出来た。その一つが、「スキーの初体験」、

その後数年後にダムは完成した。
ダムの完成記念碑には私の名前も刻まれおり、いつ
の日か又行ってみたいと思う。

■88年4月:S63
奈良俣ダム配属から2年後、
69'式のワーゲン(カブトムシ型、色はペバーミン
ト)に荷物を詰めるだけ詰め、上部キャリアにはサ
ーフボード、後部にはスキー板をくくりつけ、水上
や沼田の友に別れを告げる。

向かうは名古屋。

■山の生活からいきなり都会の生活が始まる。
ここでは、旧:建設省の庄内川工事事務所、調査設
計課で勤務。 寮は春日井にあり、名古屋の「みゃ
~みゃ~」文化を楽しむ。

■88年10月:S63
"青年海外協力隊"の「派遣」が決定!

選考試験に合格、 長野県駒ヶ根市にある、根訓練
所に入所。

ここでは朝から晩まで缶詰状態で、語学(スペイン
語)を学んだ。こんなに机にむかったのは初めてだ
った。その他、任国事情(グアテマラ)や国際協力
学を学ぶ。

二ヶ月半(80日)の訓練が終わり、その後、わた
し達は、世界50カ国(現在は80カ国)へと別れる。

■89年1月:S64(1月4日じてんでは、まだ昭和だっ
た。後に昭和天皇がご逝去され、「平成」と称号が
変わる)

会社から休職の辞令交付を受け、1月4日に派遣国
である「グアテマラ」出発する!

グアテマラに入る前に、メキシコ、クエルナバカ市
で約1.5ヶ月間の特別語学研修を受ける。
この時、秘密訓練としアカプルコへ行った。

クエルナバカは駒ヶ根訓練所と違いリラックスした
雰囲気で楽しい生活が送れた。(ホームステイ)

とても、とても、楽しい語学訓練だった。

■89年3月:H元年3月~91年1月:H3
グアテマラ・シティーへ到着。

わたしはグアテマラ共和国と日本政府が初めてODA
の技術派遣協力締結した、その第1号隊員だった。

派遣人数1名、たった一人で、マヤ文明の地、
グアテマラ国へ乗り込む。

こんな私でも、この時ばかりは大変に緊張し、不安
に駆られ、寂しい思いをしたことを今でも忘れない。

グアテマラでは、都市農村開発省(現在はこの省は
存在しない)に配属され、辞令をこの省の大臣から
(日本で言うならば、農林水産大臣)直接 受けた。

でもこの時、語学の未熟なわたしは、この大臣が何
を喋っているのかが、さっぱり理解出来なかった。

きっと海馬は喜んでいたのだが、語彙と脳みそと
身体が連動せず、萎縮していた。

■勤務地は首都から200km離れたバハ・ベラパ
ス州サラマ市。(バスで片道5時間)

この時から、わたしの土木技術者とする「グアテマ
ラの探検」、「冒険の生活」が始まる。

二年間でグアテマラ国内はくまなく歩いた。
それだけではもの足りず、メキシコの主たる地にも
足を踏み入れる。

その後ベリーズ、
エルサルバドル、
ホンジュラス、
ニカラグア、
コスタリカ、
パナマ、を「冒険」し、

"ダーウィンの進化論"の地、エクアドルの
"ガラパゴス諸島"を訪ねる。

ガラパゴスを最後に、日本へ帰国する。

■91年1月:H3年1月
成田へ到着!

真冬なのに半袖アロハシャツで堂々とタラップを降
りる私を思い出した。2年間の中南米生活ですっか
り頭は"アミゴー!"の世界だ。

成田へ迎えに来てくれた、上司が「唖然」とする。
(笑)

※これから、今日までずっ~と
"逆カルチャーショック"、、、現在に至る。

■91年3月:H3年3月3日
グアテマラ派遣前に結納を交わした彼女(現在の妻)と
 晴れて結婚。

■91年4月:H3年
痛い現実(復職)の始まり。

東京で辞令交付を受け、長野県木曽福島へ向かう。

ここでは中部地方の水事情を解消するべく
"味噌川ダム建設"が最盛期を迎えていた。

ここではなぜか?「調査設計課」という非常に頭を
使う、("脳みそが狂いかけた”)頭の痛い「課」
に配属される。

進む仕事は、リハビリ中のわたしのことなど考えて
くれる訳もなく、連日連夜の超過勤務生活の始まり
だった。

味噌川は4月というのに、まだ雪雪雪の豪雪地帯だ
った。

中南米から雪国生活へと、生活・仕事に慣れるま
で、相当の時間を要したわたし。

また道路事情が反対のグアテマラから母国の右ハン
ドルへ感覚を取り戻したのも、この長野県だった。

この復職で、日本の本当の厳しい現実をつくづく
実感するであった。

味噌川でも色々なことを体験した。

もう時効なので公開するが、設計がダム本体の進捗
に追いつかず、(会計検査対策です)

人間を離れした、二晩まったく一睡もせず
「58時間」業務(作業)を体験した。

その後、後遺症が発生し、初の帯状疱疹(たいじょ
うほうしん)に倒れ、1週間ほど寝込んだ。

これも若き思い出の一つだ。

味噌川では、2年6ヶ月の"海馬リハビリ"を続け 
るが、回復の余地なく リハビリ困難と診断され
(笑)、その組織を退職。

■93年10月:H5年
宮崎に戻り、現在勤務する「第一建設」に入社!

●以来 ず~っと私の脳みそは"リハビリ中"(笑)

■08年3月12日
第一建設(株)代表取締役社長に就任。

◆05.02.28 初「skype」を体験、感動!
skype名は「masashihashibe」 

◆現在、わたしが所属するプロダクションが「桃組」、
そのボスが桃知師匠、
ハンドルネーム「pinkhip」
http://www.momoti.com/index.php

桃知師匠との出会いによって、
わたしは2003年9月15日より、この日記
(反省の行為)を書き始める。

◆更新履歴
○10.07.15:宮崎県口蹄疫で埋却を体験
○10.07.03:宮崎県海外協力協会会長を退任
○10.04.19:家族構成等を修正
○08.05.14:分類にメタボリック判定「非該当」を追加
○08.02.06:プロフィールの修正
○08.11.17:モットーと座右の銘を追加、
○08.10.07:プロフィールの修正
○08.09.25:趣味の追加、ハンドルネームの追加、活動の追加
○08.07.16:体重の変更(減)
○08.06.18:本文の一部変更
08.03.12:役職の変更(代表取締役社長に就任)
○08.02.28:体重の変更
○07.05.11:活動・分類、家族構成の改訂
○07.03.17:体重増加、
○07.01.25:体重変更、脱煙草宣言日追加、
○06.08.29:プロフィール若干の修正・追加